【謹賀新年】感謝感謝の六十周年を振り返って
皆さま新年明けましておめでとうございます、安住庵・支配人の渡邊です。
公務員だった女将の祖父・尾﨑久春が、永年の夢だったホテルをオープンさせたのは、前の東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年のこと。
以来さまざまなお客様にご愛顧いただき、おかげさまで今年で六十周年を迎えることができました。
当時の中村市(現四万十市)には民宿が数件だけ。
というのも、四万十川ブームになったのはこのずっとあとで、中村駅もまだなかった時代なので、この地を目指して宿泊される方は少なかったという様子。
この時すでに足摺岬は、四国霊場八十八ケ所の三十八番札所・金剛福寺へ訪れるお遍路さんや、田宮虎彦の同名小説の出版、その後映画化されたことも相まって観光の方が押し寄せていたということです。
当時の法人名が〈足摺観光株式会社〉だったことからも、その方たちに来ていただこうという思惑があったのだろうと推測されます。
そんな状況の中、地域でも初のホテル〈ホテル中村〉として誕生したわけですが、当初はなかなか思うようにいかなかったようです。
中村駅ができたのはそこから6年後のこと。
それまでは窪川駅が終点で、足摺岬にはそこからバスでいかねばならないような状況でした。
足摺岬へ向かう場合でもここは中間地点となっているため、別の用事がなければわざわざバスを途中下車する必要のないのも当然のことでしょう。
創始者はホテルオープン後10年ほどで、宿が苦境にあえぐさなか病に伏されることに。
その後宿の経営には当初から否定的だった女将の父・岑を説き伏せて、嫁である母・住子が切り盛りしていくことになります。
そのころには中村市はだんだん繁栄を見せ始め、ビジネスの方や学生さんのみならず、プロ野球選手・南海ホークスのキャンプ地となったり、映画やコンサートなどで数々の著名人の方にもご利用いただくようになっていったそうです。
馬車馬のように働いてきた2代目の社長と女将。
26年前女将と共にこの宿に携わることになり、今後の運営方針などで喧々諤々になりながらも大きなリニューアルを行い、〈なごみ宿安住庵〉に生まれ変わった姿には当初反対していた二人も本当に嬉しそうにしてくれました。
創業から60年の歴史の中で私たち3代目も早や26年目。
宿の半分近くの歴史に関われたことに感無量です。
何とかここまでやってこられたのも、ひとえにご愛顧いただきました皆様のおかげであると感謝の念に堪えません。
コロナ禍の真っ最中に、倉庫の中から女将の祖父・久春の日記らしきものが出てきました。
病床に伏せてからのものらしく、そこには家族親族それぞれにあてた弱々しい文字が。
女将が3歳のころのことで、それまでいつもニコニコしている優しいお爺ちゃんのイメージしかないようですが、この日記からは志半ばで宿の成長を見届けられず、大きな負債を家族に残してしまう無念の思いが綴られていました。
創始者やそれを引き継いでいった2代目。
いろいろな人の思いがつまった60年だと感じています。
また新たな1年が迎えられることの喜びを胸に自分の身体を精一杯労り、これからも居心地の良い宿であるよう精進を続けて参ります。
どうか皆さまにとって平穏な一年になりますよう心より祈念致します。