女将と若女将の母娘親子喧嘩があった「ホテル中村改造計画」
こんにちは、安住庵・支配人の渡邊です。
24年前、私がこの地で第二の人生を始め、しばらくするうちに「このままでいいのか」という自問自答が日に日に強くなっていきました。
勤務した当時この宿は『ホテル中村』という屋号でした。
いわゆる高度成長期に、近代的ホテル(当時この地に他にホテルはなかった)として前の東京オリンピック開催の年昭和39年に創業しました。
私の妻の祖父が建てて間もなく他界し、その後嫁である母親が、父親にはっぱをかけて切り盛りをしてきました。
借り入れを返済するため、それはがむしゃらに働いてきたようです。
NHKで取り上げられて四万十川は一大ブームになり、ホテル中村はその波にも乗って何とか借り入れを順調に返していけていたようです。
その後一時のブームに陰りが出始め、築35年のホテル中村は気が付いてみると「時代遅れの宿」でしかなくなっていたのです。
観光客の他、学生の団体やビジネス客、お遍路さんと、それまではいろいろなお客様がいらっしゃいました。
地元の宴会もよく受けていて、大型免許を取ってマイクロバスで送迎もしました。
4階建ての建物ですがエレベーターはありません。
年配のお客様が4階の部屋になった時にはおぶって上がったこともあります。
お部屋にはバストイレはなく、シングルから6~7名入れる大部屋など、お部屋にはいろんなタイプが16室ありました。
最初はただただ仕事を覚えるのに必死で、とにかく仕事をこなすのに精一杯でしたが、少し気持ちに余裕ができてくると、自分達が後を継ぎこの宿を運営していくためには「このまま何の改革もせずにいたら未来はない」と私達夫婦の間では意見がまとまりました。
まずは女将の説得です。
そのために「ホテル中村改造計画」という経営計画書を作ることから始めました。
コンセプトを作り、来て欲しいお客様を絞っていく。
それに則った改装も必須事項になってきます。
・県外の観光客を中心にご利用いただき、居心地のいい宿である事。
・唯一無二の立地を生かした眺望抜群の大浴場がある事。
・記憶に残る「おもてなしの心」でリピーターを増やす事。
それまでの小さな部屋と部屋をつなげて1部屋にし、お部屋から四万十川が見えることも喜んでもらえると思い、部屋数は10室(現在は9室)に減らしました。
収容人数が少なくなることからも、宿泊単価も当時からはだいぶアップすることになるので、それまで顧客であったビジネス客は予算的に合わなくなりお泊り頂けなくなってしまいます。
女将がやってきたことを、ある部分で否定することになってしまうわけです。
女将には自負とそれまでの付き合いがありますし、今からまた大きな借り入れをすることにも猛反対されました。
企画書の内容的には理解できることもあるけれど、意地とプライドが先に立ってしまったのでしょう。
私には遠慮があったのかもしれませんが、その後の女将と若女将とのやんごとなきバトルは凄まじいものがありました。
一時期は全く最低限の会話しかしなくなり、孫の面倒も見てくれません。
双方ピリピリとした状態が1年ほども続きました。
女将も頭では下降線をたどっている状況に気づいていたはずですが、自分たちが苦労して返してきた大借金を、また娘たちに負わすことに抵抗があったのでしょう。
でも私達夫婦の辛抱強い説得や考えに折れて、ついにはGOサインを出すことになったのです。
「改造計画」を作り始めてから3年かかりました。
その後は女将も前向きになってくれて、資金的にも多大な援助をしてもらいました。
屋号を決める段階ではそれまでの女将の功績を称え、「住子」という名前から一字を取り「安住庵」としました。
こうして『なごみ宿安住庵』はこの辺りでは他に類を見ないタイプの宿として、2003年リニューアルオープンしました。
私がこの地に来てから5年目の事でした。
完成時には前女将にもとても喜んでもらい、その後当時契約していたJTB高知支部の最優秀賞を10年連続で受賞することができました。
地域でも一目置かれる宿に変貌できたと思っています。
ある程度の後悔と妥協を含めても、自分たちの想いが詰まった宿造りができました。